大判例

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浦和地方裁判所 昭和46年(ワ)677号 判決 1977年3月31日

原告

土井昭志

原告

土井久美子

原告

土井麻記子

右法定代理人親権者父

土井昭志

同母

土井久美子

右原告ら訴訟代理人弁護士

江藤鉄兵外五名

被告

医療法人社団米寿会上尾中央総合病院

右代表者理事

中村秀夫

被告

宮里安信

右被告両名訴訟代理人弁護士

丸山正次

林武一

主文

1  被告らは各自、原告土井麻記子に対し金二七六二万三〇〇〇円、原告土井昭志および原告土井久美子に対し各金三四〇万五八一三円、ならびに内原告土井麻記子に対する金二五一二万三〇〇〇円、原告土井昭志および原告土井久美子に対する各金三一〇万五八一三円については昭和四六年一二月三日から完済まで、内原告土井麻記子に対する金二五〇万円、原告土井昭志および原告土井久美子に対する各金三〇万円については本判決送達の日の翌日から完済まで、それぞれ年五分の割合による金員を支払え。

2  原告らのその余の請求を棄却する。

3  訴訟費用はこれを二分し、その一を原告らの、その余を被告らのそれぞれ負担とする。

4  この判決の原告ら勝訴の部分は仮に執行することができる。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一、原告ら

1  被告らは各自、原告土井麻記子に対し金四一〇三万円、同土井昭志および同土井久美子に対し各金九一九万円、および原告土井麻記子に対する金三七五三万円、同土井昭志および同土井久美子に対する各金八四四万円について昭和四六年一二月三日から右完済に至るまで、原告土井麻記子に対する金三五〇万円、同土井昭志および同土井久美子に対する各金七五万円について第一審判決送達の翌日から右完済に至るまで、それぞれ年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告らの負担とする。

3  仮執行の宣言

二、被告ら

1  原告らの請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告らの負担とする。

第二  当事者の主張

(原告らの請求原因)

一、当事者

被告医療米寿会上尾中央総合病院(以下「被告病院」という。)は、肩書地において総合病院を経営しており、被告宮里安信(以下「被告宮里」という。)は被告病院産婦人科に勤務する医師である。

原告土井麻記子(以下「原告麻記子」または単は「麻記子」という。)は、原告土井昭志と同土井久美子間の長女である。

二、事故の発生

原告土井久美子は、昭和四五年八月妊娠し(出産予定日は昭和四六年五月九日)、同四六年二月一二日破水状態となつて被告病院産婦人科に入院、同月一九日被告宮里のもとで原告麻記子を出産した。原告麻記子は、出生時の体重が一三五〇グラムの未熟児であつたため、被告宮里の指示で出生した日から被告病院内の保育器に収容され、体重が二〇〇〇グラムを越えた同年五月一四日までの八五日間保育器内で看護をうけ、同月二六日体重二七九〇グラムで退院したが、その後未熟児網膜症(以下「本症」という。)を起したことが判明し、両眼を失明するに至つた。

なお、原告麻記子の分娩経過および保育経過に関する被告らの主張を認める。

三、原告麻記子の失明の原因

(一) 本症の原因

一般に、本症の原因としては、ビタミン欠乏説などがあげられていたが、オーストラリアのキヤンベルが酸素過剰説を提唱して以来、バツツらの動物実験や多くの疫学的臨床的研究によつてこの説が確認され、我が国にもこれら諸外国の経験が紹介され、また、多くの臨床的研究にもとづいて、酸素療法が本症の発生に重要な関係がある点には異議がないとされ現在では、酸素以外のすべての因子は、否定されるに至つている。本症は未熟な網膜血管に酸素が作用して発生するものであり、酸素療法との因果関係がほとんどの研究報告によつて異議なく認められ、特に酸素濃度と投与期間が大きな影響を与えることが指摘されたが、それとあわせて酸素療法上注意すべき問題として、昭和四〇年代の当初から次のような点が指摘され、未熟児保育の担当医に警告されていた。すなわち、従来、本症の予防のため酸素濃度について過剰な高濃度の酸素投与を抑制するという観点から四〇パーセント以下の濃度に抑えるという方法が唱えられていたが、四〇パーセント以下という基準が必らずしも安全なメルクマールとはいえず、個体差によつて、特に低体重児に長期間酸素を投与する場合には、たとえ四〇パーセント以下の濃度を守つたとしても本症の発生を防ぐことはできず、本症の発生をみることがあることが小児科医と眼科医の双方から明らかにされ、したがつて、そのためにも未熟児の眼底を注意深く観察することが必要不可欠であることが強調され、未熟児保育担当の医師に周知され一般的認識となつていた。

(二) 原告麻記子の本症と酸素投与との因果関係

原告麻記子は、出生してから直ちに保育器に収容され、八三日間もの長い間三九パーセントないし二八パーセントの酸素の投与を受けている。当初には呼吸障害があり、チアノーゼも長期間継続していた。本症は、酸素濃度を四〇パーセント以内に抑えたとしても、発生するのであり、特に一五〇〇グラム以下の低体重児の場合は、チアノーゼや呼吸障害を起すため酸素供給を必要とし、かつ、長期にわたつて供給される。したがつて、酸素濃度を抑えたからといつて本症が発生しないものではない。麻記子は在胎週二九週、生下体重一三五〇グラムの未熟児であり、呼吸障害、チアノーゼが継続したのであるが、このような未熟児に長期間、酸素投与が続けられれば本症が発生し、しかも瘢痕期に移行する重症例となる可能性があるのであつて、本件の酸素投与によつて通常生すべき結果であるということができ、未熟児の看護保育を専門とする被告宮里も当然発生を予見することができたものである。

四、被告宮里の過失

(一) 未熟児保育を担当する医師の注意義務

1 医師の一般的注意義務

医師は、患者の生命と身体に直接かかわる事柄について治療することをその任務としているのであるから、治療に関する高度の医学水準を常に保持し、高度の医学知識をもとに、一定の環境(条件)のもとでは一定の症状が発生することを予見し、それにもとづき患者の生命身体を害する結果を回避すべく、適切な治療を施すべき注意義務がある。

2 未熟児保育の専門医としての注意義務

未熟児、特にその中でも未熟性の高い未熟児の保育を担当する医師は、未熟児保育に関して当然高度な注意義務が要求される。在胎期間が短かく体重が一五〇〇グラム以下のような未熟性の高い未熟児は、チアノーゼや呼吸障害を起こすことが多く、その場合には、生命を救うために一定濃度の酸素を継続して供給することが必要であるが、他方、酸素投与が原因で本症の発生を招くことも従来の研究報告から未熟児保育を担当する医師には広く知られている。そこで、未熟児保育を担当する医師は、未熟児の全身管理に努めるとともに酸素を投与する場合には不必要な供給を避け、できるだけ早期に眼科医の協力のもとに定期的眼底検査をして本症の発生を予知し、適期に治療を施すなどして、未熟児の生命を安全に守るほか本症による失明を免れるためにその当時の医学知識にもとづいて細心の注意を払わなければならない。両親は、その医師が、未熟児保育を担当する医師として未熟児の生命と身体を安全に守り、無事に育ててくれる意思と能力があるものと信じて保育を任せるのであり、その医師は、保育器を備えて未熟児を預つたときから、その後に生じうる種種の生命、身体に対する危険に対してその当時の医学水準にもとづいた最善の措置をする義務があり、右義務は、未熟児を保育するための保育器を置いていること自体から生ずる責任ともいえる。

3 被告宮里の場合

被告病院では、昭和四五年八月から産婦人科を設けると共に、保育器も備えて同科で未熟児の保育をしていた。同四六年二月当時は被告宮里がこれに当つていた。

被告宮里は、昭和三九年福島医科大学を卒業したときから、同大学婦人科に勤務し、未熟児の保育について担当深い経験を有している未熟児保育の専門家である。医学について全く無知な原告麻記子の両親は、被告宮里が未熟児保育の専門家であり、未熟児で生れた麻記子の生命、身体を安全に保育してくれるものと信頼して麻記子の保育を任せた。在胎二九週、生下時体重一三五〇グラムの麻記子は、未熟性の高い未熟児であり、このような未熟児を保育する被告宮里が、社会一般および麻記子の両親から、未熟児保育に関する深い経験と、一層高度な注意義務を要求されることは当然である。被告宮里には、このような未熟児を保育する専門医師としての通常の注意義務が要求される。

(二) 被告宮里の責任

1 被告宮里の酸素療法上の過失

(1) 酸素療法上の基本的注意義務

未熟児の保育には酸素投与が必要不可欠である。ところが、酸素投与が原因で本症の発生を招いていることも従来の研究報告で明らかであり、原告らも主張してきたところである。そこで、それぞれの未熟児の条件によつて、いかにして適切な濃度の酸素を投与し、あわせて本症の発生を予防するかが、未熟児を保育する医師にとつて大きな問題となつてくる。殊に、在胎期間が短く、低体重の未熟児は、その生命維持のため長期間投与することが多く、しかも、その網膜血管も新生の過程にあり、酸素不足、過剰のいずれも敏感で傷害を受けやすく、本症に患る例も多い。また、チアノーゼや呼吸器疾患がある場合は、特に高濃度の酸素が必要であるため、いつそう発症の危険が多い。

そこで、未熟児保育を担当する医師に、保育器に収容して未熟児を保育する場合には、酸素投与に十分注意を払い、当該来熟児の主体的条件に合わせて適正な濃度の酸素を、その必要とする期間投与しなければならないのであるが、酸素投与については、本件の昭和四六年二月当時、次のようなことが指摘され強調されていた。

第一に、未熟児保育の担当医は、必ず眼科医を参与させ、眼科医との緊密な協力体制のもとで酸素療法を施行しなければならない。

第二に、酸素の投与については、漫然と一定の濃度を機械的に投与していればよいというものではなく、当該未熟児のその時々の一般状態にあわせて、きめ細かく酸素濃度の調整をしなければならない。

第三に、保育器中の未熟児に投与する酸素濃度の指標としては、本件当時、眼底所見による方法、動脈血中の酸素分圧による方法、チアノーゼを指標とする方法などがあげられていた。

(2) 被告宮里の措置

被告宮里は、さきに指摘した点について、全く念頭になく、何の注意も払わなかつた。

第一に、眼科医の参与は全くなく、未熟児の眼の管理を全面的に放置した。

第二に、きめ細かい酸素投与についても十分な注意義務を尽さなかつた。

乙第一号証の診療録および被告宮里の尋問の結果によれば原告麻記子に対する酸素投与は次のとおりである。

初日(2・19)から五日目 毎分三リツトル三七―三九パーセント

六日目(2・24)から一二日目 毎分二リツトル

右より四―五パーセント低い

一三月目(3・3)から六日目 毎分一リツトル

右より五―六バトセント低い

六八日目以後はチアノーゼが出たり、特発性の呼吸がある場合だけ毎分一リツトル流して酸素を切るようにし、生後八三日目で酸素投与を中止し、その二日後に保育器より出した。

さきに指摘したように、未熟児に対する酸素の投与は当該未熟児の一般状態に合せてきめ細かく行なわなければならず、このことが本症の発生を免れる重要なポイントである。本来酸素に敏感な未熟児に対してその一般状態を無視して機械的に長期に亘つて酸素を投与することは本症の発生を容易ならしめることになる。

しかるに、被告宮里は麻記子に対し、右のとおり、単に出生後数日毎に三リツトル―二リツトル―一リツトルと機械的に酸素量を漸減したにすぎず、一日中同量を流し放しであり、その時々の麻記子の一般状態に合せて適正な濃度を調整した形跡はない。

以上のとおり、麻記子の場合、単に濃度が四〇パーセント以内に保たれていたとしても、酸素投与は機械的であり、眼科医の協力による眼科的管理もなされず、長期間漫然となされたのであつて、前述の昭和四六年二月当時の未熟児に対する酸素療法の初歩的知識を全く欠くものであつた。被告宮里の酸素療法は全くずさん極まりないもので、後述の麻記子の全身管理上の怠慢とあいまつて麻記子の本症発生を容易ならしめた点で酸素療法上の著しい注意義務違反があるものといわなければならない。

2 被告宮里の全身管理の怠慢

(1) 全身管理の重要性

本症は、未熟児保育を担当する医師の徹底した全身管理と、眼科医の定期的眼定検査があれば、多くの場合予防されるものであるし、仮に本症が発生した場合でも、多くの場合、オーエンスⅠ、Ⅱの軽症のうちに自然寛解するものである。

(2) 全身管理の内容

未熟児保育にあたつては、未熟児の生命を助けるとともに脳や目、肺などに後遺症を残さずに助けることが大切である。全身管理の内容としては、大きく分けて①呼吸状態の管理、②循環状態の管理、③栄養の管理、④目の状態の管理、の四つが挙げられる。

(3) 被告宮里の全身管理上の問題

麻記子は、在胎期間二九週、生下時体重一三五〇グラムの未熟児として出生した。診療録の記載によると、初めのうちは時々呼吸停止もあり、呼吸不整、呼吸微弱、心音微弱もあつたようである。未熟児を保育する場合、児の状態を綿密に把握し、微妙な変化も注意し、呼吸状態、循環状態、栄養、目の状態などにわたつて適切な措置をすることが要求されている。しかし、麻記子の場合、体温が一日二回計られているだけで呼吸数、脈はくなどは診療録上は不明で検査されていたか疑問である。被告宮里の供述によれば、同人は麻記子の落陽症状さえ気づかなかつた。また、二月二八日以降、診療録の記載も時々欠けており、四月に入ると時折記載があるだけで、記載のない日にどのような措置をしたか不明であり、何の措置もとらなかつたものと思われる。看護記録も重要な時期に記載が欠けており、十分な管理を尽したものとは到底認められない。

栄養についても、被告宮里は、麻記子の生後四日目にして初めて二ccの糖水を与え始めたにすぎず、その後の補給も極めて少量であり、麻記子の著しい体重減少を考えると適切な措置であつたか疑問である。

(4) 同時収容について

麻記子は、八五日間保育器に収容され、この間次のように他の新生児と同時に収容された。

麻記子(一三五〇グラム)

二月一九日〜五月一四日

難波恵子(二〇八〇グラム)

二月二三日〜三月一一日 一七日間

斉藤洋子(二三二〇グラム)

二月二七日〜三月一日 三日間

秋山慶子(二一八〇グラム)

三月七日〜三月九日 三日間

石崎典子(三五二〇グラム)

四月二一日 一五時間

田中富江(三二四〇グラム)

五月三日 一五時間

照井悦子(一九〇〇グラム)

五月七日⑦五月一〇日 四日間

以上合計すると、

三名同時収容二月二七日〜三月一日

(麻記子、難波、斉藤)

三月七日〜三月九日

(麻記子、難波、秋山)

二名同時収容 計二一日と三〇時間

未熟児への酸素投与および全身管理は、その児の状態に応じてきめ細かくなされなければならず、これを怠ると、児に重大な影響が生ずることは既に各研究報告により明らかである。しかるに、被告宮里は、麻記子を保育するにあたり、合計二七日と三〇時間他の児を同時に保育器に収容していた。それも、麻記子の状態が悪い時期、すなわち、特にきめ細かい酸素投与および全身管理が必要な時期がほとんどである。

被告宮里が、この点において未熟児保育を担当する医師としての注意義務を著しく懈怠していたことは明らかである。

3 眼底検査および治療の懈怠

(1) 眼底検査を実施し、光凝固による治療を受けさせる義務

未熟児に酸素を投与する場合、同時に定期的な眼底検査をすることが本症の早期発見のために必要かつ不可欠である。殊に一五〇〇グラム以下の低体重児はチアノーゼや呼吸障害を起こすことが多く、酸素も長期間になりやすい。しかし、四〇パーセント以下の濃度を保つていた場合でも低体重児に長期間投与は続ければかなりの頻度で本症が発生することも多くの研究報告から明らかである。したがつて、低体重児に長期間酸素を投与した場合は、本症の発生を予知し、進行を監視し、適切な時期に適切な治療を施して本症例に陥る結果を回避しなければならず、担当医は、このために眼科医と協力して定期的眼底検査を併行してやらなければならない。このことは、昭和四六年二月当時は、すでに未熟児を披う産科、小児科医の常識となつており、未熟児保育を担当する医師の基本的注意義務の内容になつていた。担当医は、この医学知識にもとづいて、できるだけ早期に当該未熟児の眼底検査をして適切な措置をとらなければならない。

そして、網膜症の発生をみたならば、適切な時期に光凝固による治療を施し、当該病院で実施できない場合は実施可能な病院に転医させて失明という最悪な事態を回避すべき注意義務がある。

(2) 被告宮里の認識および義務違反

被告宮里は福島医大を卒業してから、同大産婦人科教室、日赤福島病院に勤務し、昭和四五年七月被告病院に赴任し、本件当時、約七年の経験をもち、多数の未熟児保育を扱い、相当のベテランになつていた。そして、本症についても相当の認識をもち、未熟児に対する眼底検査の必要性を十分知つており、退院時に検診させようとすればできたのである。しかし、被告宮里は、麻記子の眼底検査を全然しなかつた。その結果、麻記子に対し本症の発症を早期に発見して週期に光凝固による治療を受けさせる機会を失わしめ、失明を余儀なくさせたもので、被告宮里の眼底検査を実施しなかつた注意義務違反の責任は重大である。

4 転医させる義務の違反

(1) 眼科医との協力体制の必要性

被告宮里は、自ら未熟児保育の専門家としての措置ができない場合は、直ちに他の未熟児保育の専門家に転医させ未熟児の生命と身体の安全を図るべきであり、転医させないならば、自らが専門医として通常要求されている高度な注意義務を尽くさなければならない。

未熟児の保育を担当するのは小児科医または産科医であり、未熟児の眼底検査には習熟していない場合が多い。そこで、小児科医または産婦人科医としては、眼科医と密接な連絡を保ち、未熟児を保育器に収容して酸素を投与するときから眼科医の協力を求め、定期的眼底検査を行わなければならない。また、本症を発見した場合でも、小児科医または産科医としては自らが治療できない場合が多いが、この場合には、光凝固の施設と経験を有する病院に時期を失わず連絡をとり、そのもとで治療を行わせるべきである。

これらの措置をとることは、被告宮里医師のような未熟児保育を担当する医師の注意義務の一つであつて、自らが眼底検査および治療をできないからといつて、その義務を免れ本症の進行を放置することはできない。逆に以上の注意義務が尽くせない場合は未熟児保育の専門医に早期に転医させるべきである。

(2) 被告宮里の過失

被告病院では、産婦人科開設当初から保育器を備えて未熟児保育を被告宮里に担当させている。在胎週二九週、生下時体重一三五〇グラムのいわゆる極小未熟児である原告麻記子の保育を担当する被告宮里としては、前項に述べた措置をとるべきであつたのに、これらの義務を全く懈怠し、原告麻記子をして失明を免れる機会を失わせた。

転医可能な範囲内に眼底検査ができる眼科医はいたのである。

狭く埼玉県下だけをとつても、被告病院とほぼ規模を同じくする社会保険埼玉中央病院および済生会川口市民病院においては、未熟児を担当する医師の側から眼科に対し、眼底検査の依頼をしていた。

眼底検査によつて、原告麻記子の本症発生を発見できた場合は、直ちにその病院で光凝固法を施行すべく、またこれが可能な病院に移送すべきであつた。関東週辺では、関東労災病院、東京厚生年金病院、東大病院、都立母子健康病院などに光凝固装置があり、永田誠医師やこれら病院の医師らも参加して、昭和四四年一〇月東京の農林年金会館で第一回光凝固研究会がもたれ、四五年一〇月虎ノ門病院で第一回の光凝固グループデイスカツシヨンがもたれ、更に四六年五月第二回光凝固研究会がもたれている。それらの会合で、永田医師らによつて本症の治療法としての光凝固法が紹介され、その後の治療経験も報告されており、関東週辺の医師らに周知され、本症の治療を行うことも可能となつた。

天理病院の永田医師は、他の病院から転医してきた場合、天理病院では受入れ体制はできており、遠い所からの転医の例としては、四国の松山善通寺や福井などがある旨を述べている。

以上のとおり、被告宮里が十分に原告麻記子の本症の治療をする気になりさえすれば、すなわち、眼科医との協力体制や病院間の日常的協力体制をとつていれば、眼底検査および光凝固の施行は可能であつたのであり、これによつて麻記子は失明を免れたはずであり、これを怠つた被告宮里の責任は重大である。

5 説明義務違反

医師法二三条は「医師は、診療したときは、本人又はその保護者に対し、療養の方法、その他保護の向上に必要な事項の指導をしなければならない。」と規定し、健康保険法等にもとづく保険医療機関および保険医療養担当規則一三条は「保険医は、診療に当つては懇切ていねいを旨とし、療養上必要な事項は、理解し易い様に指導しなければならない。」と規定している。なお、保険医療機関につき、療養上必要な事項について適切な注意及び指導を行わなければならない(同一一条)。これらの義務も医師の注意義務の一内容である。

未熟児に長期間わたつて酸素を投与した場合には本症が発症する危険性があるのであるから、原告麻記子に八三日間にわたつて酸素を投与した被告宮里としては、本症の発生を予期し、退院時において、本症発生の可能性、眼底検査、光凝固法による治療方法がある旨両親に説明し、直ちに専門医の診断を受けるよう指示する義務がある。右説明、指示があつたならば、原告ら両親は、原告麻記子のために八方手を尽くして眼底検査を受けさせ、できるだけ早期に光凝固法の適用を受けることができたはずである。

ちなみに、原告麻記子は退院時の五月二四日には、本症が発生したばかりか、あるいは進行し始めたばかりであつて、その後、六月三〇日に東大病院で手遅れで失明していることを宣言されるまでの間に、瘢痕期Ⅴに進行したものである。したがつて、この三〇数日の間に専門医の診察を受ければ少くとも失明は免れたはずである。

しかるに、被告宮里は、前記医師法の規定にもとづいた未熟児保育を担当した医師としての義務に違反し、原告ら両親に何の説明および指導を行なわず、このため原告麻記子は失明という重大な結果を免れる機会を失つたものであり、被告宮里のこの点の注意義務違反の責任は重大である。

(三) 以上のとおりであるから、被告宮里は民法七〇九条により後記損害を賠償しなければならない。

五、被告病院の責任

(一) 債務不履行責任および不法行為責任

原告昭志、同久美子と被告病院との間には、昭和四六年二月一九日、被告病院が未熟児の原告麻記子を保育する事務処理を目的とする準委任契約が成立し、被告病院は右債務を被告病院全体として誠実に履行すべき契約上の義務があり、被告宮里を履行補助者として任務の履行に当たらせていたものであるが、被告病院自体には後記(二)の義務違反があり、また右宮里は、未熟児である原告麻記子の保育担当医としての適切な処置をとらず、前記四に述べたとおり義務違反があり、これによつて原告麻記子に両眼失明の傷害を負わせたものであるから、被告病院は、債務不履行として、原告らの蒙つた損害を賠償する責任がある。

また、被告病院は、被告宮里を雇用しており、右宮里は前記義務違反によつて原告麻記子に両眼失明の傷害を負わせたものであるから、民法七一五条により、原告らの損害を賠傷する責任がある。

さらに、被告病院は、病院全体として、後記(二)のとおり、未熟児保育を担当する病院として、必要な産科および眼科の協力体制、転医の体制などをとる義務に違反し、原告麻記子に両眼失明の傷害を負わせたものであるから、民法七〇九条により、原告らの損害を賠償する責任がある。

(二) 被告病院の医療体制の不備、怠慢

被告病院は、本件当時、内科、外科、耳鼻科、眼科、産科を有する総合的な病院であり、昭和四六年七月には埼玉県知事の承認を得て「総合病院」となつものである(総合病院の申請は同年五月一八日)総合病院は、診療科目中に、内科、外科、産婦人科、眼科、耳鼻いんこう科を含み、各科がそれぞれ高度に充実した医療技術、設備を有しなければならないのであつて(医療法二一条)、診療上各科が相互に連けい、共助し合うことによつて、患者に対し、最も科学的で適正な診療をすることを目的としている。被告病院も総合病院の規準、目的に沿うものとして、前記年月日に申請し、まもなく「総合病院」として承認されたのであるから、本件昭和四六年二月から五月当時における被告病院の注意義務も総合病院の注意義務に準じて考えなければならない。

本症は、産科、眼科、小児科の各科にわたる疾患であり、右の三つの診療部門のいずれか一つに限定してその担当を考えることはできない。したがつて、右各科は、常時緊密な連連、協力体制をとつておかなければ、重大な結果を招く危険は目に見えている。このことは、すでに植村恭夫医師らが各論文でつとに指摘し、警告してきたことである。

そこで、総合的な病院である被告病院としては、未熟児を保育するについて、日頃から産科および眼科間の相互の緊密な連絡体制をとり、酸素療法を施す場合にはできるだけ早期に眼科医による定期的眼底検査をし、これにもとづいて適切な措置をとらなければならない。未熟児網膜症が進行している場合は適期に光凝固法を適用すべく、産科および眼科の協力のもとに右設備のある病院に転医させる措置をとらなければばならない。医師が自らの病院で適切な措置をとれない場合は、他の人的物的設備のある病院に転医させなければならない義務があることは既述のとおりであり、被告病院としても、日頃から他の病院と連絡し合つて、必要な場合、直ちに転医できる体制をつくつておかなければならない義務がある。

以上は、本件医療契約にもとづいて被告病院が履行すべき契約義務の内容であり、被告病院の基本的かつ重要な注意義務であるといわなければならない。

ところが、被告病院では、このような医療体制は全くとつていなかつた。眼科医との協力体制もなく、他の病院へ転医する体制も全くなかつた。そのために、被告宮里は、未熟児保育を担当する医師としての通常の措置をとることはできなかつた。

本件後、被告病院では右のような医療体制をとるようにしたが、それは、本件の被告病院の義務懈怠を明らかに物語つている。したがつて、被告病院は、医療体制の不備という注意義務懈怠によつて、本件の失明を招いたものであるから、債務不履行責任または民法七〇九条の不法行為責任にもとづいて、原告らに生じた損害を賠償しなければならない。

六、原告らの損害

(一) 原告土井麻記子の慰藉料二〇〇〇万円

原告麻記子は、本症による両眼失明によつて、生後間もなくに光を奪われ、一生を暗黒の中で過さなければならなくなつた。

失明は、他のいかなる身体障害と比較しても、たとえその失明が成年になってからであっても、その精神的肉体的苦痛は、はるかに耐え難い。それゆえに、自動車損害賠償補償法も、両眼失明を一級一号として、一番重大な後遺障害とみている。しかし、この成人になつてから、あるいは多少成長してからの失明は、原告麻記子のばあいとくらべれば、まだ幸せであつたともいえるのである。原告麻記子は生後間もなく失明した。視覚による外界は、体験したことの全くない麻記子には想像すらできない。誰も麻記子に、去年の夏連れていつた青い海の色も、また麻記子がよく鳴き声をまねするという小猫の姿も、そして、父母の顔すら説明してわからせてやることはできない。

人間が成長していく過程で、視聴覚とりわけ視覚のはたす役割は、きわめて重要である。乳幼児期にあつては、父母や家族を見てその真似をして成長していくものである。生きていくうえでの初歩的なルール、自分にとつて安全なもの危険なものの区別も、乳幼児は視覚によつて体得していくのである。赤く燃えている火には、やけどするから近づかないとか、包丁は怪我をするから持つてはいけないとか、そういうあたりまえのことをすべて乳幼児は視覚により体得し、そしてすぐにその危険を自分で避けることができるようになつていく。しかし、麻記子は、生きていくうえでのこれらの初歩的なルールすら体得するのに、目の見える子らと比較すれば、おそらく何十倍かの時間と努力を要するであろう。普通目の見える子であれば、一才にもなれば口もとに運んだコツプは、誰に教えられなくとも、テーブルの上に置く。しかし、目の見えない麻記子には飲み終つたらなぜコツプをテーブルの上にもどしておかなければならないのかわからない。また、麻記子は、洋服の裏、表もわからない。麻記子には、洋服の裏表を気にしなければならない理由はおそらく決してわからないであろう。麻記子にとつては、危険は避けるという普通目の見える子なら数年も経たずに体得するものとおもわれるような生きていくうえでの初歩的なルールすら、これからも長期の努力が必要なところへ、この社会に適合していくためには、前述のような洋服の裏表など麻記子にとつてはどうでもよいようなことまで、理解していく努力が必要なのである。本当に、何という気の遠くなるような根気のいる努力が、麻記子のこれからの一生に要求されているのだろうか。

両眼失明によつて、麻記子の視覚による美に対する感受性は失われている。美しい自然も、絵も、彫刻も、映画も演劇もいつさいみることはできない。生後間もなく両眼失明してしまつた麻記子には、想像することすらできないのである。視覚によつて体験するものは、言語によつては説明は不可能である。麻記子は、美しい自然も、絵も、彫刻もそして映画もテレビも演劇もこれらの見る楽しみは、一切失なわれている。一般に身体に障害のない者でも、その人の人生の中には、失意のとき、悲しいときがあるものである。そのとき、どんなに美しい自然や絵に心を慰められ、あるいは励まされることであろう。ましてや麻記子は、両眼失明という重いハンデイを負つて生きていかなければならないのである。これからもつとも励ましや慰めが必要になつてくる麻記子に、美しい自然や芸術を見ることができないのである。

麻記子が生後間もなくして両眼失明したことにより、そのほかの生活面でも必然的に制約を受けていることも、看過できない。子供同志でよくやるゲームの仲間入りもできないだろうし、スポーツをやることもほとんど無理である。また、麻記子は、成人しても、職を得ることは不可能である。このように麻記子は、一生、社会生活の面でも決定的な制約を受けている。

以上のとおり、原告麻記子は、一生暗黒の世界に生き続けなければならず、社会生活の面はもとより、日常の起居動作も著しい決定的な制約を受けていることを考えれば、麻記子の精神的肉体的苦痛はたえ難く測りしれない。これを償うためには、原告麻記子の慰藉料として、金二〇〇〇万円が相当である。

(二) 原告土井昭志および同土井久美子の慰藉料各金七〇〇万円

合計金一四〇〇万円

原告土井昭志および同土井久美子は、昭和四六年六月末、東大病院で、麻記子が未熟児網膜症であることを知らされた。そして、それは土井昭志も久美子も、被告病院の前で一家四人で死んでしまいたいと思つた程の衝撃であつた。それからというもの、土井昭志は、しばらく仕事に出かける気もなくなり、久美子も食事ものどを通らず、泣きあかし、原告一家は、まるで奈落の底につき落されたような毎日が続いた。

そして、昭和四六年八月頃から植村医師の紹介で、土井久美子は麻記子を背負つて週一回郡立身心障害者福祉センターへ育児の方法を教わりに二年間通つた。また原告の自宅の附近に住んでいる障害児の児童心理を専攻している郡馬大学の須田教授より、盲児の育児や遊び方などの指導を受け、原告土井昭志、久美子はそれこそ必死で、麻記子の養育にあたつた。そしてまた土井久美子は、久美子が病気で入院するまで片道一時間の距離を麻記子を背負つて教育大附属の盲学級の幼稚部に聴講生として週一、二回通つていた。発育のよい麻記子を背負つて、電車で通うのは、母親でなければできないことである。そして、とうとう久美子は、精神的肉体的過労がかさなつて、昭和五〇年六月二五日から入院を余儀なくされた。そのため、麻記子を一時預つてもらう施設を探しまわつて、ようやく訓盲院でみてもらうことができた。普通の子であれば麻記子くらいの年令になれば、父親がいれば、母親が入院することになつても、昼間だけ近所の知人に預つてもらうという方法で何とか解決できたかもしれない。しかし、麻記子は、当然ながら大変手がかかり、他人に預けるわけにはいかないのである。久美子が洗面に行つている間に、麻記子がガスの元栓をひねつてガスを出したこともあり、食事の仕度中に電話がかかつてきたときは、必ずガスの元栓をしめてから電話に出るように気を使わなければならない。また、いくら寒くても久美子の目の届かないかぎり、ストーブもつけないのである。麻記子は包丁の危険もわからず、手に触れるものは平気でつかんでしまうため、麻記子の届かないところに置いておかなければならない。そして、土井昭志及び久美子にとつて何より辛いのは、麻記子に対する他人の視線である。そのために、土井久美子は、他人の視線から逃れられる夕方が来るのが楽しみだつたと述べている。

そして、麻記子の将来についても、視力の回復の見込みがないため、その不安は減ずるどころか、ますます大きくなつている。

このような、原告昭志および久美子の精神的苦痛を償うためには、各七〇〇万円の慰藉料が相当である。

(三) 原告麻記子の逸失利益

金一七五三万円

原告麻記子は、本症による失明によつて、一生を暗黒の中ですごさなければならないばかりでなく、将来労働することは全く不可能であり、日常の起居動作さえも著しく制約されざるを得ない。労働基準法施行規則別表第二の身体障害等級表によれば、両眼の失明は障害等級第一級に該当し、労働能力喪失率一〇〇パーセントとされている(労働基準法監督局長通牒昭昭和三二年七月二日基発第五五一号)。

原告麻記子は現在四才八ケ月であり、本来ならば、将来一八才から六七才までの四九年間通常の労働をすることが可能である。その間同人は労働大臣官房統計情報部編昭和四八年賃金構造基本統計調査報告による女子労働者全産業平均の月間給与五万八九〇〇円および年間賞与その他の特別給与一六万五〇〇〇円に相当する収入を得ることができるはずである。また、右通常の労働のほかに家事労働にもあわせ従事することができ、少くとも年間平均一二万円に相当する労働をすることができる。

したがつて、右収入の総額の現在価値が原告麻記子の逸失利益であり、合計金一七五三万円となる。(ここに用いる新ホフマン係数は、就労終期までの年数は六七から四を引いた六三年であり、就労始期までの年数は一八から四を引いた一四年であるから、六三年の係数「28.087」」から一四年の係数「10.409」を引いた「17.678」である。)

(四) 原告昭志、同久美子の看護費用

各金一四四万円 合計金二八八万円

原告麻記子は両眼失明のため、前述したとおり通常の健康な幼児とは違つた特別の養護が必要である。日常の生活は、始終看護者がいなければ何もできず、原告久美子は同麻記子の傍を離れることはできない。そのため、久美子は麻記子のために出費もかさむ家計を支えるための内職など全くできないことはもとより、他の家事にも支障が出ている。久美子の現在の生活はほとんどすべて麻記子の看護に明け暮れているといつても言い過ぎではない。原告昭志は、麻記子の日常の看護を手伝うほか、身体障害者である麻記子を特別の養護学園に通わせるなどして、麻記子に最大限の明るい毎日を送らせようと努力している。

これらの事情から、麻記子の両親である原告ら両名について、看護費用としてそれぞれ少くとも麻記子の小学校卒業時まで一二年間毎年金一二万円(合計金一四四万円)を要するものをいうことができる。

(五) 弁護士費用 金五〇〇万円

原告らは、本裁判提起にあたり、原告訴訟代理人に対し、弁護士報酬として請求額の約一割にあたる額、すなわち、原告麻記子について金三五〇万円、同昭志及び久美子について各金七五万円を支払う旨約した。

(六) 以上のとおり、原告麻記子については金四一〇三万円、同昭志、同久美子については各金九一九万円の損害を蒙つたので、被告らに対し、右金員の支払および原告麻記子に対する金三七五三万円、同昭志および同久美子に対する各金八四四万円について本訴状送達の翌日(昭和四六年一二月三日)から右完済に至るまで、弁護士費用である原告麻記子に対する金三五〇万円、同昭志および同久美子に対する各金七五万円については第一審判決送達の翌日から右完済まで、それぞれ年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

(請求原因に対する被告らの答弁および反論)

一、請求原因一の事実(当事者)を認める。

二、請求原因二の事実(事故の発生)を認める。

なお、原告麻記子の出生および保育の経過は次のとおりである。

(一) 分娩経過

原告土井久美子の分娩予定日は昭和四六年五月九日であつたが、昭和四六年二月一二日に妊娠七ケ月末で前記破水にて被告病院に入院した。

入院後羊水漏出がほとんど無いくらいに少いことと一日でも在胎日数を長くすることが出生児の生育条件をより良くするとの考えで、被告宮里は破水後の子宮内細菌感染には十分に注意を払い、感染予防の目的で抗生物質を投与しつつ、待期的に経過を観察していたが、同月一七日に再度羊水の漏出を認めたので、分娩誘導を行ない、同月一九日午後四時四二分体重一三五〇グラムの女児未熟児(原告麻記子)娩出に成功した〔妊娠八ケ月(二九週)である〕。

出生時原告麻記子には心肺不全を認められたので、直ちにアトムV55型保育器に収容した。母体は分娩第三期弛緩性出血で輸血を四〇〇ccしなければならなかつたが、以後経過良好で二月二四日軽恢退院した。

(二) 保育経過

原告麻記子は出生直後から未熟性強度で、全身のチアノーゼと肺不全、心不全が認められ、頻回の無呼吸発作をくり返すため酸素吸入と強心剤の投与が必要であつたので、被告宮里は次のように酸素吸入と強心剤の投与を行なつた。

1 酸素流量は生後五日目まで…

毎分三リツトルの割合(酸素濃度

三七〜三九パーセント)

生後六日目〜一二日目まで……

毎分二リツトルの割合(同三二〜

三四パーセント)

一三日目〜八三日目まで…

毎分一リツトルの割合(同二六〜

二八パーセント)

尚酸素を八三日もの長期にわたつて使用したのは、その間度々チアノーゼと異状呼吸発作をくり返したためである。

2 強心剤は一日当あたり

生後八日目まで

ビタカン0.2cc×8回

〃 九日目〜一二日まで

ビタカン0.2cc×4回

〃 一三日目〜三〇日まで

ビタカン0.2cc×2回

その間、被告宮里は原告麻記子が無呼吸発作を起す度に日中、夜間を問わずすぐにかけつけ、人工呼吸にて蘇生に成功した。生後五日目より経鼻腔チユーブ栄養を開始したが、全身状態不良と強度未熟性のために体重減少は生後三〇日目まで続き、遂に一〇〇〇グラムを下廻る九四五グラムまで減少したが、看護婦の日夜の努力もあつて生後三三日目より除々に体重も増加し始め、生後五二日目に生下時体重に復した。その間、少しずつではあるが全身状態も改善されつつあつたが、呼吸異常とチアノーゼがとれたので、酸素吸入を停止した。

以後呼吸異常もなくチアノーゼもみられず、体重も次第に増し、生後九六日目に体重二七三〇グラムで退院した。

三、請求原因三の事実(原告麻記子の失明の原因)を否認する。

本症の発生と保育器中の酸素濃度とは直接の関係はない。保育器中の酸素濃度を上げても、血中の酸素部分は必ずしも上昇しないし、酸素療法を行なわなかつた場合にも本症が発生した例がある。本症は医原性疾患ではなく、網膜の未熟性自体にその発生原因があるのであり、酸素の適正な投与が行なわれても本症の発生は避けられないものである。

また、仮に本症の発生と保育器中の酸素濃度との間に因果関係があるとしても、本症発生予防のために酸素を制限すると、かえつて未熟児の肺不全による死の結果を招くことになり、いずれにしても、適正な酸素投与は、未熟児に対しては必ず行なわざるをえないのである。そして、被告宮里は、保育器中の酸素濃度を常に四〇パーセント以下に保ち適正な酸素投与を行なつていたものであるから、被告宮里の酸素療法が原因で原告麻記子が本症にかかり失明したということはできない。

四、請求原因四(被告宮里の過失)についての被告らの反論

(一) 医師の一般的注意義務について

医師の注意義務を定めるには、その診療に当つた医師を取り巻く各種の環境、例えば大学病院、その他これに準ずる都会地の大病院で行なわれた医療行為か、あるいは各県における代表的総合病院の医療行為かあるいはこれに比べ医療設備の整わない病院または個々の医療行為かの問題があるが、これに加えて各都府県における医療行為の地域的環境の水準が基準とならなければならない。

例えば、その県の人口に対する医師の比、医師一人当りで負担する患者数の問題、ひいては医師の過重負担による医学医術の研究時間の障害または身体的負荷の増大による注意義務低下等の問題が起る。

これを被告病院ならびに被告宮里について見るに、埼玉県における人口一〇万人当りの医師の数は、昭和四五年一二月末(本件事故に最も近い)70.9人で、全国平均114.7人を遙かに下まわり、全国最下位で、昭和四八年一二月末でも医師の数は人口一〇万人に対して六六人に低下して沖繩県を除けば全国最下位である。昭和四五年一二月末の埼玉県下の産婦人科の数は四六〇名で、眼科医の数は一五二名である。

この様に埼玉県は首都圏として毎年二〇万人ずつ人口が増加しているのに医師の数が追い付かず、医療過疎県であるのに昭和四二年以来出生率は全国第一位で、人口一〇万人に対して二、三七〇人となつている。これをもつてすれば埼玉県下の医師、殊に産科医が如何にオーバーワークであることが明瞭である。

産婦人科の診療範囲は、未熟児の保育ばかりでない、産科面では多くの普通分娩(例えば被告病院における昭和四五年七月から一年間の被告宮里の取り扱つた分娩は五〇〇件を起えている。その内二、五〇〇グラム以下の未熟児は三五件である。)における母子の診療保健指導や、異状分娩、妊婦の検診等あり、婦人科方面でも数多くの婦人病の診療に当らなければならない。これを被告宮里一人でやつているのである。

しかも医師は、医師法第一条により診療の求めがあつたときは、これをことわることはできない。

この様な状況下の注意義務、つまり地域診療の医療の水準と云うことも十分考慮さるべきものである。これを単に産婦人科医師として十把ひとからげに注意義務を画一的に見るが如きは、地域医療の実情を無視するものである。

(二) 被告宮里の責任について

1 酸素療法および全身管理上の過失被告

宮里に右の点の過失があつたとの主張を争う。

(1) 原告は、保育器内の酸素の流量は未熟児の一般状態に合わせてきめ細かく行なわなければならない。酸素に敏感な未熟児に対してその一般状態を無視して機械的に長期にわたつて酸素を投与したことが網膜症の発生を容易ならしめたと主張している。

しかしながら、天理よろず相談所病院または国立小児病院のように特に人員の揃つた(特に看護婦)病院ならば一日何回となく保育器の酸素の量を調べ、未熟児の全身状態と合わせてその流量を加減することができるかも知れないが、それは理想論で、一般病院では行ないがたく、日赤病院でも一日二、三回計るくらいである。

被告宮里は毎日の診療で原告麻記子の身体の状態とにらみあわせて必要かつ最低限度の酸素の流量に抑えて発生したチアノーゼ異状呼吸等に対処して適当な処置を加えていた。

また、この流量の計り方が少ないために全身状態が悪くなり、そのため酸素を供給された期間が長くなつて、本症が発生したとの因果関係を認めるに足りる証拠はない。

(2) 原告らは、同一保育器内に複数の未熟児を収容することは失当であると述べている。

もちろん、被告病院における保育器が数多くあり、未熟児が出生したとき何時でも各自にあてがわれるだけ整つていればそうできたであろうが、被告病院は昭和四〇年四月開設で、しかも産婦人科が開設されたのは被告宮里が同病院に就職した昭和四五年七月からである。その半年後の原告麻記子出生の昭和四六年二月に、産婦人科医が被告宮里一人であつた同病院に保育器の備え付けが一台であつたといつて、現在の個人医療施設の全体からみてこれは非難することはできない。

この病院の未熟児出生率は、昭和四五年七月から四六年六月までの一年間に、全出生児五百人中、未熟児三五名の七パーセントである。

こうして成熟児の入院日数は平均七日間であるから、通常はこの程度の産科では保育器一台というのは普通の形である。そしてたまたま未熟児の出生が片寄り、その数が重なつた場合、原告麻記子より後に出生した未熟児も酸素の補給が必要な場合、応急措置として同時収容が行なわれたのである。日赤産院でも同時収容がしばしば行なわれていて、これは保育器不足の場合、緊急避難でやむを得ないものである。しからばこの点も被告らに過失はない。

また、同時収容が仮りに原告の主張の如く不当なものであるとしても、これがために原告麻記子の未熟児網膜症が発生したものであるとの因果関係は立証されない。

しからば、この同時収容を前提として、被告宮里の酸素の流量を攻撃するのは当らない。

2 眼底検査および治療上の過失

(1) 被告宮里医師の認識

(イ) 元来、本症それ自体は眼疾患である。そのため眼科領域においては比較的早くこの研究が進められ、その発生の原因、病態、診断、治療および予防等について最初ほとんど眼科領域での研究が進められ、その研究の結果が次第に未熟児を取り扱う産科医または小児科医の臨床に導入されるに至つたものである。

この導入も本症の研究に取り組んだ特殊の眼科医のいる病院に所属する産科医または小児科医と眼科医との連携によりはじまり次第に他に及んで行つたもので、しかも、この導入の進行はきわめて遅く、そのためこれが研究に当る眼科医と未熟児を取り扱う産科医または小児科医との間に本症に関する知識の断層ができてしまつたのが、本症の発生した昭和四六年二月頃の現実であつた。

そして、本症の実体または治療法についての文献もその大多数が眼科の医学雑誌に掲載されていることは原告の主張立証する甲号証の各論文によつて明らかである。未熟児網膜症について産科または小児科の医学雑誌に掲載されたものは時期的にも遅く、また数も少ない。

未熟児網膜症の治療に効果をあげている光凝固法についても、天理よろず相談所病院眼科医長永田誠医師が従来眼疾患の網膜剥離症等の治療に使用していた光凝固法を未熟児網膜症の治療に応用して成果を上げ、これを臨床眼科昭和四三年四月号に掲載したのが最初でその後昭和四五年五月号の同誌に第二回目の治療の成果が発表されているのみである。その直後昭和四六年二月の時点で本症患者に接した被告宮里がこれらの眼科雑誌に目が届かずこれに対して光凝固法による治療をなさなかつたとしても、その当時の埼玉県における小さな病院の一産科医の医療水準に照らして、医師として注意義務に欠けるところがあつたとするのは苛酷な注意義務を求めるものである。

(ロ) 昭和四六年二月当時、眼科も併設されていた総合病院である松戸市立病院や大宮日赤病院でも、未熟児の主治医から眼科医に対し未熟児の眼底検査を依頼した事例は全くなく、まして被告病院の如く眼科の併設されていない病院においてこれをなさなかつたとしても、注意義務違反とはならない。

(ハ) また、昭和四六年二月当時、関東地方において本症の治療のため光凝固手術を実施していた病院は、東京厚生年金病院と関東労災病院の二つである。そして、当時これらの病院へ患者を転送した医師はいずれも眼科医であり、未熟児の保育にあたつていた産科医ではない。当時この二つの病院で本症の治療に光凝固法を行なつていたことを産科医である被告宮里が知らず、この二病院へ本件患者を送らなかつたとしても、そのおかれている具体的状況を考えれば、注意義務違反があつたとはいえない。

(2) 結果回避可能性

(イ) 本症の治療法としての光凝固法は、昭和四六年二月当時確立されていないし、また一〇〇パーセントの治療効果を示す確実な治療方法でもなく、この点については現在においても研究中の段階である。新手術術式は、守るべき要約、適応の撰択、実施時の注意、術後の追跡などの研究を十分に行ない、副作用などに対しての総合的な研究、追試が重ねられてはじめて確立されるものである。

(ロ) 未熟児網膜症には、活動期の診断基準および臨床経過分類としてⅠ型とⅡ型がある。Ⅱ型とは、主として極小低体重出生児にみられ、未熟性の強い眼に発症し、血管新生が後極より耳側のみならず鼻側にも出現し、それより周辺側の無血管帯が広いものであるが、ヘイジーのためにこの無血管帯が不明瞭なことも多い。後極部の血管の迂曲、怒張も初期よりみられる。Ⅰ型と異なり、段階的な進行経過をとることが少なく、強い滲出傾向を伴い比較的速い経過で網膜剥離をおこすことが多く、自然治癒傾向の少ない予後不良の型のものをいい、現在これに対する有効な治療法はない。

そして、原告麻記子は、在胎期間第二九週で著るしく在胎期間が短い上に生下時体重一五〇〇グラム以下の極小未熟児であり、右のⅡ型に該当する可能性が大きく、Ⅰ型に該当することを前提とする原告の主張は失当である。

3 説明義務違反

(1) 原告は、被告宮里が医師法二三条や保険医療機関および保険医療担当規則一三条の保険指導を行なわず、原告麻記子の退院に当つても特別説明を与えなかつたことが医師として注意義務違反であると主張しているが、被告宮里は原告麻記子の病状につき親権者に説明したので、説明義務違反にはならない。

もつとも、被告宮里が原告麻記子の親権者に対し、本症につき特別の説明をしたことはないが、これは被告宮里も原告麻記子の本症の発生については予期していなかつたからであり、予期しなかつたこと自体について被告宮里に注意義務違反のなかつたことは、前記2で主張したとおりである。

また、原告麻記子の退院に際し、通常行なつている通り一か月後に診療は受けに来る様に告げている。

しかして、同被告は医師としての保健指導についての説明義務を果している。

五、請求原因五(被告病院の責任)について

原告土井昭志、同土井久美子と被告病院との間に、原告ら主張のような内容の準委任契約が成立したこと、被告病院が被告宮里を雇用し履行補助者として右債務の履行にあたらせていたことは認めるが、被告病院の責任については争う。

六、請求原因六の事実(原告らの損害)は不知。

第三  証拠<略>

理由

第一当事者の地位等

原告土井昭志および同土井久美子が原告麻記子の両親であることならびに被告宮里が被告病院の産科に勤務する医師であることは当事者間に争いがなく、また、<証拠>によれば、被告病院は、昭和四六年二月当時すでに総合病院としての実質をほぼ有していたが、同年五月一八日に総合病院としての申請をし、同年七月五日その承認があつた事実が認められる。

第二事故の発生

原告麻記子が、被告病院において、昭和四六年二月一九日に、在胎期間二九週、生下時体重一三五〇グラムで出生し、直ちに保育器に収容され、その間、被告宮里が保育の責任者となつて、

生後五日目まで  毎分三リツトル

(酸素濃度三七〜三九パーセント)

六日目から一二日目まで

毎分二リツトル

(酸素濃度三二〜三四パーセント)

一三日目から八三日目まで

毎分一リツトル

(酸素濃度二六〜二八パーセント)の割合による酸素投与が連続して行なわれていたことは当事者間に争いがなく、また<証拠>によれば、原告麻記子は、昭和四六年九月までには、本症により両眼とも失明していた事実が認められ、これに反する証拠はない。

第三本症研究の歴史

<証拠>によれば、以下の事実が認められこれに反する証拠はない。

一九四二年、ボストンのテリーは水晶体の後部に黄白色を示す眼の先天異常を水晶体後部線維増殖症(R・L・F)と命名し、水晶体血管膜を含む胎生血管の遺残、過形成によるものとした。一九四九年オーエンスらにより、本疾患は未熟児に主としておこる後天性疾患なることが主張されて以来、その臨床的、病理的研究の進展にともない、先天異常とは明確に区別された。

一九五一年オーストラリアのキヤンベルは、その原因として未熟児保育時の酸素過剰説を唱え、アシユトン・パッツらの動物実験によつてこの説が裏付けられ、その後の多くの疫学的研究によつて酸素過剰説が確認されるに至つた。

米国では、酸素療法の普及に伴い、本症が急激に増加し、一九五〇年から一九五七年には乳児失明の最大の原因として注目をあび、大がかりな臨床的実験的研究が行なわれ、本症はその八〇パーセントが未熟児に発生すること、酸素療法と深い関係をもつことが明らかにされ、その後酸素の使用がきびしく制限されたことにより本症の発生頻度は減少をみるに至つた。

一九六〇年、アベリーオツペンハイムは、一九四四年から一九四八年の酸素を自由に使用していた期間と一九五四年以後の酸素をきびしく制限してからの特発生呼吸障害症候群の死亡率を比較検討し、後者のその死亡率の増加したことを報告した。これによつて、ここ数年間において、未熟児の酸素療法に大きな変革がもたらされ、呼吸障害児には高濃度の酸素補給が行なわれるようになり、ここに再び未熟児網膜症の増加する可能性が強くなつてきた。このような情勢にかんがみ、米国においては、一九六七年、国立失明予防協会主催の未熟児に対する酸素療法を検討する会議が小児科医、眼科医、生理学者、生化学者を集めて開かれ、次のような問題がとりあげられた。

(1)  酸素投与の基準

(2)  酸素療法を受けた乳児の臨床的兆候、動脈血酸素分圧値の測定、眼底所見との関連など

(3)  環境酸素濃度看視装置の改善の必要性

(4)  適切な観察がなし得ない場合の酸素使用に関する警告の必要性

(5)  血管運動を支配する因子における基礎的研究の必要性

そして、ここでは、酸素療法をうけた未熟児はすべて眼科医が検査すべきことが指摘された。

これら諸外国の研究や経験は、昭和三六年から同四五年ころにかけ、植村恭夫、永田誠、中島章らによつて我が国に紹介された。

第四本症の臨床経過

<証拠>によれば、以下の事実を認めることができる。

本症は、多くは両眼性にくるが、その程度は必ずしも同一ではない。本症の起始および進行は多種多様であるが、オーエンスの分類(一九五五年確立)が臨床的に用いられ、現在もこの分類が原則的に臨床上採用されている。

オーエンスは、臨床経過を次の三期に大別し、初期変化は、常に未熟児の生後一か月に始まり、六か月ころまでには瘢痕期に移行する。

(1)  活動期 生後四〜五か月ころまで

Ⅰ期(血管期)、Ⅱ期(網膜期)、Ⅲ期(初期増殖期)、Ⅳ期(中等度増殖期)、Ⅴ期(高度増殖期)にわけられる。最も早期に現われる変化は、網膜血管の迂曲怒張が特徴的であり、網膜周辺浮腫、血管新生がみられる。ついで、硝子体混濁がはじまり、周辺網膜に限局性灰白色の隆起が現われ、出血もみられる。Ⅲ期に入ると、限局性の網膜隆起部の血管から血管発芽が起り、血管新生の成長が増殖性網膜炎の形で硝子体内へ突出し、周辺網膜に限局性の網膜剥離を起す。更にⅣ期、Ⅴ期と進み、高度増殖期は、本症の最も活動的な時期で、網膜剥離を起したり、時には眼内に大量の出血を生じ硝子体腔をみたすものもある。

(2)  回復期

(3)  瘢痕期 程度に応じてⅤ度に分ける。

Ⅰ度 眼底蒼白、血管狭細、軽度の色素沈着等を示す小変化

Ⅱ度 (乳頭変形)乳頭は、しばしば垂直方向に延長し、あるいは腎臓型を示したり、網膜血管の耳側への偏位を認める。蒼白のこともある。

Ⅲ度 網膜の皺襞形成

Ⅳ度 (不完全水晶体後部組織塊)網膜剥離、水晶体後部に組織塊形成

Ⅴ度 (完全水晶体後部組織塊)水晶体後方全体が網膜を含む線維組織で充満

なお、本症は、発生してもすべてが瘢痕期に移行して失明するというわけではなく、発症例の多くは自然寛解して治癒していくものであり、したがつて、自然寛解するか、瘢痕期に移行する重症例になるのかを見極めるためにも、活動期の所見を十分注意深く観察する必要がある。

また、最近の研究によれば、本症には、比較的緩慢な経過をとるⅠ型と、段階的な進行経過をたどらず、比較的早い経過で網膜剥離をおこすⅡ型があり、後者は主として極小低体重出生児に発症するとされている。

第五本症の原因

一<証拠>によれば次の事実が認められる。これに反する証拠はない。

未熟児の網膜血管は、未だ耳側周辺部の網膜まで発育するに至らず、胎外へ出た後に発育することになるが、この網膜血管は極めて酸素に敏感で、収縮しやすい。すなわち、未熟な網膜血管が、動脈血の酸素分圧の上昇により強い収縮をおこし、ついには不可逆性の血管閉塞をきたすのである。その後に環境酸素濃度が低下し、酸素分圧が正常に戻ると閉塞血管流域の極度の酸素欠乏状態に陥り、これが異常刺激となつて網膜静脈のうつ血と血管新生をもたらす。この新生血管は透過性が強く、血漿成分の漏出がおこり、のちに増殖性変化をおこし、遂には瘢痕収縮により網膜に破壊的変化をきたすものと考えられている。

したがつて、本症の発生原因としては、児の未熟性、すなわち、網膜の未熟性と、酸素の投与量および投与期間が主要なものと考えられ、現在までこれを否定する見解は存在しない。特に生下時一五〇〇グラム以下の極小未熟児は、生命の危険を救うために酸素療法を必要とし、かつ、その期間も延長されやすく、本症の発生する危険が大きい。

しかし、全く酸素投与が行なわれていない児にも本症の発生例があることなどから、本症の発生原因として他の因子も存在することが考えられ、また、本症の発生機序そのものについても、未解明の点が残されている。

二しかしいずれにしても、本症が先天的疾患でなく、未熟児の保育の過程で発生する後天的疾患である以上、未熟児保育の責任者が、未熟児の本症による失明の危険を予見でき、かつ、失明の結果を回避できたのに、これを予見せず、あるいは回避の措置をとらなかつた場合には、本症による失明の結果発生には過失責任があるものとして、その損害を賠償する義務を負わなければならないことにはかわりはない。

第六被告らの責任

一医師は、患者の生命、健康の管理を業とするものであるから、医療行為にともなつておこりうる危険の予防、回避については、自己の専門家としての高度の医学知識に基づき、自己のとりうる最善を尽す義務があると同時に、医療行為自体が日々進歩するものであるから、自己の医学知識についても不断にこれを認め、できるかぎり当時の医学界の水準に達した医療措置をとるべき義務があるといわなければならない。

これを本件についてみると、本症は、その原因、診断法、治療法が先進的医師によつて徐々に明らかにされて専門誌に紹介され、次第に一般の臨庄医にもその認識が広まつていつたものであり、本訴訟は、その研究、普及過程における一時点の当該医師の認識程度についての注意義務違反を問うものである。また、本症は、出生直後の未熟児に対し、その生命維持等のため全身的管理を行なう過程で発生する眼疾患であるため、眼科、小児科、産科の各専門分野にまたがつた疾患であるという特殊性をもち、仮に眼科界においてその先進的研究がなされても、現代のように専門分化した医療体制のもとでは、直ちに小児科、産科の医師に同水準の認識を要求しえないところがあると同時に、本症の危険を認識しえた限度においては、未熟児保育の責任者である小児科医ないし産科医として可能な限り眼科との協力体制をとる義務を負うものといわなければならない。

したがつて、当該医師の義務違反を問う前提としての注意義務の基準を決定するにあたつては、第一に、本件事故当時までに本症についての医学界での最先端の研究が、眼科、小児科、産科の各分野においてどう推移し、どこまで到達していたか、第二に、本件事故当時右研究成果が一般の臨床医にどの程度普及し、また小児科、産科と眼科との協力体制がどこまでできていたか、第三に、当該医師の置かれていた具体的状況が明らかにされなければならない。

以下、本症の発生原因およびその診断方法である眼底検査につき、右の点を検討する。

二本症の原因と眼底検査についての研究過程および普及度について、

(一)  眼底検査の意義、役割

<証拠>によれば、次の事実を認めることができ、これに反する証拠はない。

未熟児に対する眼底検査は、第一に、未熟児網膜症の発症の危険およびこれによる失明の危険を予知し、また早期に発見することに最も重要な意義と役割がある。未熟児に対する眼底検査を確実に行なうことによつて、網膜症の発生を知り、その進行経過を観察し、可逆性のある時期に適切な治療を施し、失明という最悪の事態を防ぐことができるからである。

第二に、綱膜症発見のためばかりでなく、一日も早く未熟児の眼底状態を把握して、眼の情報を未熟児担当医に提供し、もつて全身管理、酸素療法の参考資料とさせ、担当医をして未熟児の個体差に着目して具体的理想的管理をなさしめるという目的をもつている。

(二)  眼底検査の時期方法

<証拠>によれば、以下の事実が認められ、これに反する証拠はない。

1 眼底検査の時期

眼底検査は、生後三〇日目頃から始めても遅すぎることはなく、むしろ、その時期以後一〜二か月の観察が最も大切である。未熟児の出生後一か月以内の眼底検査はかなり困難で、周辺部網膜は灰白色浮腫状に混濁し、網膜血管はむしろ狭細していることが多い。したがつて、生後一か月までにオーエンスⅡ期の変化を現わすことはまずない。この期間は眼底の未熟度の判別と著るしい先天異常、そのほかの異常の発見に主眼をおき、網膜周辺部の本格的な検索は生後一か月以後二か月間に主力を集中する。またこの時期には網膜周辺部の検査も比較的容易に行なえるようになつている。網膜周辺部にうつ血、新生血管などの異常を発見したならば、その後は一週ごとに追跡し、もし滲出性の境界線が出現したならば場合によつては週二回の監視が必要である。

2 眼底検査の方法

眼底検査の方法は、あらかじめ未熟児の眼を散瞳して開眼器で眼を開かせ、倒像検眼鏡でもつて瞳孔を眼底検査する。眼底検査に要する時間は約一〇分から二〇分である。

(三)  本症の原因と眼底検査についての研究過程

1 眼科界

本症の研究は、まず眼科界において進められた。眼科の専門誌に本症の報告が初めてなされたのは、別表(一)掲記の文献1(昭和24年5月発行、以下単に同表に掲げる文献番号のみで表示し、( )内の数字は、発行の昭和年、月を表わす。)であつて、後部水晶体線維増殖症に相当する一症例を報告し、テリーの論文を引いて、早産児に症例が多いが、成因については定説がないと述べている。その後文献2(28・11)ないし4(32・9)により後部水晶体線維増殖性の症例が報告され、早産児にその例が多いこと、酸素との関係が深いことが指摘されているが、いずれも瘢痕期の観察であつたため、その初期変化および成因については十分な解明がなされてはいなかつた。しかし5(35・2)にいたつて、極小未熟児の保育の増加に伴ない酸素使用量も増加し、それによつて本症発生の危険が増大するから、眼科医と小児科医が緊密な連絡をとつて注意を払う必要があると説かれた。この論説は、約二〇〇名の未熟児を検診した結果の報告であり、未熟児の酸素療法の危険性を明確に指摘したものである。これにつづいて6(36・8)ないし8(39・4)でも、本症の原因、予防のための小児科医、産科医との協力、未熟児の眼科的管理の必要性が説かれた。

特に植村恭夫は、本症の問題に早くから取り組み、多くの論文および学会講演等で未熟児の眼底検査の重要性を強調してきた。まず9(39・10)において、本症の予防、早期発見、早期治療のための定期的眼底検査の必要性を指摘した。しかし、この段階では、未だ原因や臨床経過についての詳しい論及はなかつた。ところで、本症は、前記のとおりその瘢痕期の研究からはじめられたこともあつて、当初は、その最終段階の状態を著わす「後部水晶体線維増殖症」(RETRO-LENTAL FIBROPLASIA R.L.F)と名づけられていたが、11(41・1)に至つて「未熟児網膜症」(RETINOPATHY OF PREMATURITY)との名称が使われ、本症の臨床経過全体をとらえるのにふさわしいとしてその後一般に用いられるようになつた。ただ11においても、本症の原因については明確な論述はないが、八〇パーセントが未熟児に発症するとし、本症の臨床経過を紹介して、生後よりの定期的な眼底検査の必要性を強調した。この11の論文は、一般の医師への啓蒙を主な目的とするものである。その後も植村は、12(41・5)ないし16(42・2)により未熟児の眼科管理の実際例の紹介や、眼底検査の重要性を小児科医、産科医にも普及する必要を説き、適正な酸素療法を行なつた場合でも本症は発生する危険性があるから、定期的な眼底検査は必ず行なわなければならないと述べ、積極的な啓蒙活動を行なつた。特に12おいては、「RLFに関する限り、少なくとも失明を防ぐことは現在可能なのである。そのためには、RLF発生の危険期間のみでも一〜二週毎の定期的眼底検査と主体とした未熟児の積極的な眼科的管理が必要なのである。未熟児室をもつ病院では、これを怠つて、失明児をだしたとすれば、無責任のそしりにまぬかれない。」とまで述べ、また17(42・8)は、眼科医に限らず広く一般の医師に本症の紹介および対策確立を訴えたものである。

永田誠は、植村らの前記報告を読んで本症の重要性に気づき、天理病院において、昭和四一年四月の開設以来、小児科未熟児室において眼科的管理を行なつてきた。永田は、21(43・10)において、天理病院における未熟児管理の実際を報告し、眼底検査の内容を説明した。そして、昭和四二年三月にはじめて成功した光凝固療法の有効性を説くとともに、その治療の成否の鍵をにぎる施行時期を確定するためにも定期的な眼底検査の必要性を強調した。ここにおいて眼底検査は、単に酸素療法のためのモニターとしてだけでなく、治療時期を決定するための検査として重要な意義をもつようになつた。

そのほか22、23、24においても、眼底検査の必要性とともに本症の発生が酸素濃度と必ずしも比例せず、四〇パーセント以下でも危険である旨の指摘がなされている。

2 小児科界

小児科関係では、まず文献25(29・2)が本症の初期症状を認めた報告をし、26(30・11)も本症と酸素との関係を指摘して警告を発した。さらに28(33・2)は、酸素投与を行なつた未熟児の眼底検査を行なつて、本症の発生を検討し、酸素量に細心の注意を払うよう指摘した。しかし他方、定型的なRLFは一例もなかつたと報告し、その原因は、我が国の場合、欧米とちがつて四〇パーセント以上の高濃度の酸素療法を行なわないからであるとしている。また29(36・1)は、未熟児保育の改善に伴い、今後本症の多発する危険性を指摘し、眼底検査を行なうために眼科医との協力の必要性を説いた。また30(38・6)は、本症の一般的解説のなかで、本症と酸素との関係を指摘し、投与酸素の濃度に注意する必要があるとしているが、ここでも三〇パーセント以上の濃度の酸素を継続的に使用してはならないというのみであつて、この時点までは、一方で酸素との関係が警告されながらも、他方三〇〜四〇パーセント以下の濃度であれば安全であるかのような認識があつたのではないかと解せられる。

植村恭夫は、31(40・6)、32(41・10)において、眼科医の立場から小児科医に対し本症を説明し、産科医、小児科医、眼科医の協力態勢の確立、早期発見のための眼底検査の必要性を強調し、眼底検査の実際も紹介している。34(43・1)は、本症の早期発見のため、一・二週間ごとの定期的眼底検査の必要性を説き、また酸素濃度を低くしても本症が発生することを指摘している。しかし、31ないし34も、予防法としてBEDROS-SIANの説を引用し、酸素濃度を四〇パーセント以下に保たなければいけないとし、投与期間は最少限度、停止するときは、徐々に行なうとしているところから、これを読む一般の医師にとつては、右のことを守つておれば本症にはならないかの如く理解される余地を残していた。

37(45・12)はこれに対し、本症についての研究の到達点を総合的に解説するなかで、本症の発生は必ずしも血中酸素分圧と比例せず、眼底検査の施行以外にその対策はない旨を明確に指摘した。また35(45・2)、36も酸素濃度が四〇パーセント以下でも本症が発生した例をあげている。

3 産科界

文献38(38・8)は、本症が四〇〜六〇パーセントという高濃度の酸素と密接な関係がある旨指摘し、診断法としては毎週一回の眼底検査を行なうとしているが、生後二週間で初期の異常所見がなければ本症にはならないともしている。39(38・12)では、保育器の発達と普及に伴ない、本症の危険が増大する(生下時体重と投与酸素量に比例する。)と指摘し、その予防のため、酸素分圧のコントロールと眼底の定期的観察の必要性が説かれた。40も、本症の原因は、四〇パーセント以上の高濃度の酸素や眼底の高度の未熟性などであるとし、診断法として毎週一回の眼底検査が必要であるとしている。41(42・12)は、症例をあげながら総合的な解説を行ない、酸素が重要な原因であり、眼底検査が唯一の診断法であると指摘し、予防法としては、酸素供給を必要最少限にとどめ、四〇パーセント以上の濃度にせず長期間の供給を行なわないようにすることなどであると説いた。

42(43・4)は、本症の発生との関係で酸素濃度は一応三〇〜三五パーセント程度にすべきであるとしながら、生下時体重の極めて小さい場合などは、ややもすれば酸素の過剰投与に陥りやすいので、一定期間ごとに眼底検査を行ない、本症の早期発見に努める必要があるとしている。また43(43・11)は、植村が産科医に対し本症を含めた新生児眼疾患の総合的な解説を行なつたものであるが、その中で、本症の発生をおそれ三〇〜四〇パーセントの酸素濃度とすれば呼吸障害が軽快せず血中酸素分圧が低いため酸素欠乏により同様に本症の発生をみちびくことがあるとして、本症予防手段として、チアノーゼを目標に酸素療法を行なうことは危険であり、血中酸素分圧の測定とともに眼底検査が是非必要であると指摘した。また同論文は、治療法として永田らの光凝固法を紹介し、未熟児管理について眼科医、小児科医、産科医の協力を提唱している。

4 まとめ

以上を総合すると、本症の研究は、我が国においては、保育器が先に普及していた欧米諸国の研究成果をふまえて、まず本症の瘢痕期状態の発見からはじめられたものであるが、昭和四〇年ころまでは、臨床研究例の不足と外国での本症の経験(保育器に高濃度の酸素投与した時期に多発し、これを制限するようになつて減少したとの経験)から、酸素が本症の重要な因子であることは早くから指摘されながらも、三〇〜四〇パーセント以下の酸素濃度であれば安全であるとの一般的理解に対しては、明確な危険性を指摘した論文はみられなかつた。

しかし、眼科界においては、昭和四一、二年ころから、臨床例の積み重ねもあつて、本症が酸素濃度が適正な場合でも発生する危険性もあることが指摘されるようになり、眼底検査のいつそうの重要性が叫ばれ、産科、小児科の専門誌にも、昭和四三年から同四五年ころにかけ、その旨の指摘がなされるようになつた。

他方、産科、小児科界においても、昭和四二、三年ころから、酸素濃度とともに、児の未熟性それ自体が本症の重要な因子をなすことが指摘されるようになり、低体重児に長期間の酸素を投与する場合には本症発生の危険が高いから、本症の診断法としての眼底検査を施行することが不可欠の対策であるということは、各専門誌に共通して指摘されていた。

そして、昭和四二年三月に、光凝固法が本症の治療法として成功し、別表(二)のとおり次第に普及するに伴い、眼底検査は、単に酸素療法のためのモニターとしてだけでなく、光凝固施行時期を決定するための不可欠な診断法として意義づけられるようになつた。

(四)  本症の原因と眼底検査についての研究成果の普及度

1 次に右の研究成果が、一般の臨床科医にどの程度普及しているかについてであるが、第一に、先進的研究者の研究成果が前記のとおり専門誌に発表されていること自体ひとつの普及度のメルクマールといつてよい。たしかに、日常の診療業務に追われている臨床医にとつては、他の分野の専門誌にまで目を通す余裕はないであろうが、前記第六、一で指摘した医師の一般的注意義務に照らせば、自己の専門分野に関する学界の研究発表状況には常に注意を払うべきであるというべきである。そして現実にも、証人中島章の証言によれば、別表(一)に掲げた各専門誌は、各専門分野の医師のほとんどによつて読まれている事実が認められ、専門誌の流通に関する限り地域的較差はないものというべきである。

特に、未熟児保育を担当する者は、たとえ自己が産科医であつたとしても、小児科に関する知識が、その保育に必要な範囲で要求されることは当然である。

2 第二に、右研究成果の普及度を証拠によつてみると、

(1) <証拠>によれば、昭和四二年の大阪眼科集談会において、大阪市立大の池田一三は、「現在新聞などで酸素過剰が目に後部水晶体線維増殖(R・L・F)症をおこすということが広く知られているので、眼科でR・L・Fと診断すれば、小児科の酸素のやりすぎではないかと親につめよられて困るばあいが多いのです。やはり小児科医と眼科医がもつと緊密に協力する必要があると思います。」と述べている事実が認められる。

(2) また、<証拠>の昭和四六年度国立病院未熟児医療実態調査成績によれば、未熟児網膜症診断のための眼科医との協力体制ができているところが二四施設で64.9パーセント、できていないところが一三施設で35.1パーセントというアンケート結果がでている事実が認められる。約三分の一は協力体制ができていないわけであるが、右のようなアンケートが行なわれていること自体が、昭和四六年当時、本症診断のための眼科医との協力の必要性について、広く認識されていたことを示している。

(3) 当裁判所の済生会川口市民病院および社会保険埼玉中央病院に対する調査嘱託の結果によれば、埼玉県下の被告病院と同程度の規模であると推認される済生会川口市民病院や社会保険埼玉中央病院においては、原告麻記子が酸素療法を受けていたのと同時期である昭和四六年二月から同年五月ころには、すでに未熟児担当の主治医の依頼により定期的に眼底検査を行ない、後者では診断例はなかつたが、前者では数例の診断例があり、うち一例については光凝固療法を行なわせるため国立小児病院へ転医させた事実が認められる。

三被告らの置かれていた具体的状況

1  <証拠>によれば、以下の事実を認めることができ、これに反する証拠はない。

(1) 被告病院は、その前身である上尾市立病院を、被告病院代表者である中村秀夫が昭和四〇年四月に買い受けて開設し、同四一年一月に医療法人となつたものであるが、開設当時、外科、内科、耳鼻科、眼科の四診療科目があり、ベツト数は一〇六床であつた。その後昭和四五年七月に産婦人科が開設され、被告宮里が初代の産婦人科部長に就任した。他方、眼科は開設当時から置かれていたものの、一名しかいない医師がやめたりなどして空白の時期があり、原告麻記子が出生した昭和四六年二月当時は眼科医はいなかつたが、同年三月に新たに眼科医が着任して診療が再開された。しかし当時は、未熟児の定期的眼底検査のための眼科と産科との協力体制はできてはおらず、被告病院でそれが行なわれるようになつたのは、昭和四九年ころであつた。

(2) 被告宮里は、昭和三八年に福島県立医科大学を卒業し、昭和三九年四月に医師免許を取得した後、直ちに福島県立医科大学の産婦人科教室へ入局し、同時に福島日赤病院の産婦人科に勤務していたが、昭和四五年七月に被告病院に産婦人科が開設された際、招かれてその部長に就任したが、非常勤の医師が来るようになつた昭和四六年六月までは、産婦人科の医師は被告宮里一人であつた。

昭和四六年二月当時、産婦人科のベツト数は八床、保育器が一台あり、昭和四五年八月の開設時から同四六年二月まで五二名の新生児が出産し、また原告麻記子が保育器に収容されていた昭和四六年二月一九日から同年五月一四日までの間、生下体重二五〇〇グラム以下の未熟児が四名生まれている。

2  原告麻記子に対する眼底検査の実施可能性

前認定のとおり原告麻記子は右の如き状況の被告病院において、昭和四六年二月一九日に出生したものである。そして、当時被告病院には眼科は併設されていたが眼科医がいなかつた時期であり、新たに眼科医が赴任してきたのは昭和四六年三月である。したがつて、それ以後なら、被告宮里が本症の発生を予見して眼底検査の必要性に気づいてさえおれば、右眼科医に原告麻記子の眼底検査を依頼することは可能だつたはずであり、現に被告宮里本人尋問の結果によれば、同人は、原告麻記子の退院後一か月目の定期検診の際には眼底検査を被告病院において実施するつもりであつたことが認められるのである。

<証拠>によれば、原告麻記子は、出生直後から未熟性が極度で、全身のチアノーゼと肺不全、心不全が認められ、生後二週目までは全身状態が不良で体重が九四五グラムまで減少したが、二九日目ころより、チアノーゼは時に出ていたが徐々に体重が増加しはじめ、五二日目にいたつては生下時体重に復した事実が認められる。そして、前記第六、二、(二)で認定したとおり、本症は、生後一か月までは、光凝固法が手遅れとなるオーエンスⅢ期にまで進展することはほとんどなく、それ以後に発症する場合が多いので、眼底検査も生後一か月以後の三か月間に定期的に行なうものなのである。したがつて、原告麻記子が一応生命の危磯を脱した四〇日目以後なら被告病院へ新たに赴任してきた眼科医による眼底検査はできたのであり、かつ、それで手遅れにはならなかつたはずである。

<証拠判断、省略>

四被告宮里の過失

(一)  被告宮里の本症に関する認識

<証拠>によれば、被告宮里は、本症の発生と酸素療法との間に何らかの因果関係があることは知つていたが、酸素濃度を四〇パーセント以下に保てば本症の危険はないとの認識を持つており、原告麻記子にもそれ以下の酸素しか投与しなかつたから同児に本症発生の危険は全くないと考えていたこと、およびそのため、眼底検査についても、退院ののち一か月目にやればよいと考え、出生後からそれまでの間の眼底検査の必要性についても全く認識していなかつた事実が認められる。

(二)  被告宮里の予見義務違反

1  被告宮里が本症に対し右の如き認識しか有していなかつたことが、ひいて、原告麻記子に対する定期的眼底検査の必要性に思い至らなかつたことの原因をなしていることは明らかである。そして、被告宮里のその必要性に気づいておれば、前認定のとおり、原告麻記子に対し本症による失明の危険を予見するための定期的眼底検査を実施することは可能だつたのであるから、被告宮里に予見義務違反があつたか否かの判断は、すなわち、被告宮里の置かれていた具体的状況下で本症につき右の如き認識しか有していなかつたことが、前記第六、二で認定した本証に対する研究水準およびその普及度に照らし、社会的非難に価するものであるか否かの判断に帰着する。

2  前認定のとおり、被告宮里は、本件当時まで産婦人科医として約七年の経験を有し、被告病院の産婦人科部長の地位にあつたものである。また被告病院も、当時ベツト数一〇六床の比較的規模の大きい病院であつたが、昭和四六年六月までは、産婦人科の医師は被告宮里一名であり、新生児が月に7.8名ぐらいは誕生する状況下で多忙な仕事に従事していた。このように日常の診療業務に追われている臨床医に対して、自己の専門分野外の学界誌を読みその研究結果まで修得することを要求することはできないが、少なくとも、自己が責任者となつている専門分野に関しては、医療行為の重要性とその進歩度合とに鑑み、できるかぎり新しい知識の修得につとめるべき一般的義務があるものといわなければならない。

そして、前記第六、二で認定したとおり、本症に関する研究水準は、昭和四二年から同四三年までには、眼科界ばかりでなく、小児科、産科の専門誌においても、臨床例をひきながら、本症が児の未熟性自体も重大な発生因子であることおよび低体重児に最長期間酸素を投与した場合に本症発生の危険が高いから定期的に眼底検査を行なう必要があることが多く指摘されており、また、昭和四六年には、全国の国立病院の三分の二はすでに未熟児の眼底検査を行なうための協力体制ができており、現に埼玉県下においても、被告病院と同規模の二つの病院において酸素投与を行なつた未熟児につき眼底検査が行なわれていたのであるから、前認定の被告宮里の置かれていた具体的状況を前提としても、同被告が、生下時体重一三五〇グラムの低体重児である麻記子に対し、八三日間という長期間にわたる酸素投与を行ないがら、単に酸素濃度が四〇パーセント以下であるという理由だけで本症の発生および本症による失明の危険を全く予感せず、したがつて失明の危険を予知するための眼底検査の必要性にも思いいたらなかつたことは、昭和四六年二月当時の未熟児保育を担当する医師としての予見義務に懈怠があつたといわなければならない。

(三)  失明の回避可能性

1 <証拠>および当裁判所の東京厚生年金病院および国保松戸市立病院に対する調査嘱託の結果によれば、以下の事実を認めることができる。

光凝固法が本症の治療法として初めて応用されたのは、昭和四二年三月と同年八月に、永田誠医師が二症例に実施して画期的な成功を収めたときである。爾来、光凝固法に関しては別表(二)のとおり、その実施例を含めた研究報告が相次いでなされ、昭和四六年二月ないし四月当時までに五四症例に実施して四八症例に成功を収め(ただし、失敗したのはいずれも光凝固施行の時期が遅れていたものである。)、うち七例が文献に発表されていた。

本症は、オーエンスⅠ期の段階で自然治癒する例がきわめて多いが、定期的眼底検査を行なつて、オーエンスⅡ期に入つても進行が止まらない場合には、光凝固法がきわめて有効な治療法であることは、昭和四六年以後の研究によつても確認されており、昭和四六年二月ないし四月当時、関東地方でも東京厚生年金病院、関東労災病院などに光凝固装置があつて本症治療のため使用され、また、他の病院から右治療のため転院させられてくる例もあつた。

2  以上の事実からすると、本件当時においても、適期の転医と光凝固法の施行により、本症による失明を回避できる可能性は、一般的に存在していたということができる。

3  したがつて、仮に本件当時、光凝固法が本症による失明回避の治療法として確立していなかつたとしても、被告宮里としては、前記(二)で指摘したとおり眼科医との協力義務をつくし、原告麻記子の本症がオーエンスⅡ期に入つても進行をやめないことが判明したならば、両親に対し、失明の危険、治療法の存在および転医によるその実施可能性(被告宮里自身がこれを知りえなかつたとしても、これに協力する眼科医にとつては光凝固法は広く知られていたと認められる。)を説明する義務があり、両親が光凝固法の施行を望めば、原告麻記子の全身状態が許すかぎりこれを施行するために転医させる義務があるというべきであり、右各義務をつくしておれば原告麻記子の本症による失明は回避する可能性はあつたと認められる。

4 なお被告は、原告麻記子の本症が、段階的進行経過をとらず比較的速い経過で網膜剥離をおこすⅡ型に属する可能性が強く、現在でもⅡ型についての有効な治療法はないと主張する。しかし、原告麻記子の本症が、同児が低体重児であつたという理由だけでⅡ型であると断定することはできないし、他に原告麻記子の本症がⅡ型であつたことを認めるに足りる証拠はない。さらに右のⅠ型とⅡ型の分類を提唱している乙第二六号証の研究報告によつても、Ⅱ型に対する治療法は、Ⅰ型に比べその時期、方針の選択が難しいだけで、治療法自体は存在することが認められるのである。

よつて、被告のこの点の主張は採用できない。

(四)  結論

以上のとおり、被告宮里としては、本件当時、原告麻記子の本症による失明の危険を予見し、かつその結果を回避する可能性があつたにもかかわらず、本症の発生さえ予見せず、その結果原告麻記子を失明するに至らせたものであるから、原告が主張するその余の注意義務違反(酸素療法上および全身管理上の怠慢ならびに説明義務違反)について判断するまでもなく、原告らの被つた後記損害を賠償しなければならない。

五被告病院の責任

被告病院が被告宮里を雇用し、その業務として原告麻記子の保育にあたらせていたことは、当事者間に争いがない。そして、被告宮里には前記のとおり麻記子の本症による失明につき過失があるから、被告病院は民法七一五条により後記損害を賠償する責任がある。

第七原告らの損害

一原告麻記子の逸失利益

原告麻記子が昭和四六年二月一九月出生の女児であることは当事者間に争いがなく、また、原告麻記子が昭和四六年九月には両眼とも失明していたことは前認定のとおりである。

そして、その存在、成立および内容が当裁判所に職務上顕著な昭和四九年簡易生命表によれば、原告麻記子の前記失明当時における同人と同年令者(すなわち満〇才)は、その平均余命が71.16才であるので、右余命の範囲内で満一八才に達した時から満六八才に達するまでの五〇年間は稼働が可能であると一応推認できる。

また、労働大臣官房統計情報部編昭和五〇年賃金構造基本統計調査報告によれば(労働者の平均収入は毎年増加していることは当裁判所に顕著な事実であるから、収入評価の基準時は口頭弁論終結時またはそれに近い時とするのが相当である。)、女子全産業平均の月間給与額は八万八五〇〇円で、年間賞与その他の特別給与額は二八万九五〇〇円であることが認められる。

ところで逸失利益の算定は、事故発生時を基準として行なうべきところ、原告麻記子は在胎期間二九週、生下時体重一三五〇グラムの未熟児で、事故発生時(すなわち昭和四六年二月ないし九月)を基準として考えれば、その平均死亡率が相当高率にのぼることや、その後の保育の過程で脳疾患をおこす危険もあつたもので、このような事故時における一般的危険率を考慮すると、将来の得べかりし利益を算定する際に基礎とすべき平均余命、稼働可能期間等について前記統計上の数字をそのまま用いることは必ずしも適切でない。しかし、他に適当な統計結果のない本件においては、右統計上の数字を基礎として算出した数額より一割五分を減じた額を逸失利益とするのが相当である。そして本件事故における原告麻記子の労働能力の喪失率は一〇〇パーセントと解すべきであるので、右金額を基準として新ホフマン方式により年五分の中間利息を控除すると、原告麻記子の逸失利益の現在価は金一九一二万三〇〇〇円となる(一〇〇〇円未満切捨て)。

(8万8500×12+28万9500)

×(29.24967759−12.60324712)

×(1−0.15)=1912万3003

二原告らの慰藉料

原告麻記子は、本症による両眼失明によつて生後間もなく光を奪われ、一生を暗黒の中で生き続けなければならず、社会生活の面はもとより、日常の起居動作も決定的制約を受けることを考えれば、その精神的肉体的苦痛は測り知れないものであることは想像に難くなく、また同児の両親である原告昭志および同久美子の精神的苦痛もこれまた甚大なものであると思われる。

しかし他方、右の各精神的苦痛を慰藉するため原告が被告らに請求しうる慰藉料額を決定するためには、原告らの精神的苦痛の大きさだけでなく、被告宮里の過失の軽重や医師としての他の面の努力、その他諸般の事情を考慮しなければならない。

そこでまず、被告宮里の過失の程度について考えるに、本件事故は昭和四六年二月から九月にかけて発生したものであるが、前記のとおり、被告宮里の属する産科界においては、昭和四二、三年ころまでは、保育器中の酸素濃度を四〇パーセント以下にしておけば本症は発生しないとの認識が一般的なものとなつており、昭和四三年ころからようやく、低体重の未熟児に長期間酸素を投与した場合には(酸素濃度にかかわりなく)本症発生の危険があるとの指摘が産科の専門誌においても指摘されるようになつたのである。先にも述べたとおり、人の生命、健康に直接かかわる業務に従事する医師には、特に高度の注意義務が課せられ、また被告宮里に右注意義務違反があることは前認定のとおりであるが、被告宮里のおかれた具体的状況、すなわち、本件事故当時被告病院における産婦人科医は被告宮里一名だけであり、また眼科医も欠員がちで眼科医との連携体制も十分でなかつたことを考えれば、昭和四六年当時に本症を取扱つた産科、小児科の専門誌の論稿に目が行き届かなかつたことに起因する被告宮里の過失は、必ずしも情の重いものではない。

また、被告宮里は、原告麻記子の保育に関しても医師として相応の努力を行なつている。すなわち、原告麻記子のように在胎期間二九週、生下体重一三五〇グラムの未熟児の死亡率は相当高いものであるが、<証拠>によれば、被告宮里は、原告麻記子の全身状態が著るしく悪化したときにも適切な措置をとり、生命の危機の回避に成功しているのである。それは、原告麻記子自身の生命力によるところも大きいが、被告宮里の努力も十分評価されなければならない。

以上のとおり、原告らの受けた精神的苦痛は測り知れないものであるが、他方、被告宮里の過失の程度や医師として原告麻記子の保育に努力した面を考えれば、原告らが被告らに対し慰藉料として請求しうる金額は、原告麻記子が金六〇〇万円、原告昭志および原告久美子が各自二〇〇万円とするのが相当である。

三原告昭志および同久美子の看護費用

<証拠>によれば原告麻記子は両眼失明のため、日常の生活は始終看護婦がいなければ何もできず、また身体障害者としての訓練等を受けるため養護学園に通つており、原告昭志および同久美子が右看護にあたつている事実を認めることができる。そして、右看護費用としては、失明時たる昭和四六年一〇月以後小学校卒業時まで、原告ら両名についてそれぞれ少なくとも一か月金一万円を要するものとするのが相当である。

しかして、新ホフマン方式により年五分の中間利息を控除すると、その現在価は右原告ら各自金一一〇万五八一三円となる。

1万×12×9.21511077=110万5813

四弁護士費用

本件訴訟の内容、経過および前記認容額その他諸般の事情を考慮すると、本件不法行為と相当因果関係があるとして被告らに賠償を求めうる弁護士費用の額は原告麻記子につき金二五〇万円、原告昭志および同久美子につき各金三〇万円とするのが相当である。

第八結論

以上の次第であるから、被告らは各自、原告土井麻記子に対し金二七六二万三〇〇〇円、原告土井昭志および原告土井久美子に対し各金三四〇万五八一三円、および内弁護士費用を除く原告土井麻記子に対する金二五一二万三、〇〇〇円、原告土井昭志および原告土井久美子に対する各金三一〇万五八一三円については不法行為の日の後であることが明らかな昭和四六年一二月三日から完済まで民法所定年五分の割合による遅延損害金、内弁護士費用である原告土井麻記子に対する金二五〇万円、原告土井昭志および土井久美子に対する各金三〇万円については第一審判決送達の翌日から完済まで民法所定年五分の割合による遅延損害金をそれぞれ支払う義務があり、原告らの本訴請求は右の範囲で理由があるからこれを認容し、その余は理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法九二条、九三条を、仮執行の宣言につき同法一九六条を適用して主文のとおり判決する。

(野本三千雄 石塚章夫 今井理基夫)

別表(一) 文献

番号

発行年月

昭和年月

著者

論文名

所収雑誌

(単行本)

書証番号

1

24.5

三井幸彦他

後水晶体繊維増殖症の一例及び本症と先天皺襞状網膜剥離との関係

臨床眼科

甲五一

2

28.11

赤木五郎他

Retrolental Fibroplasiaに就て

臨床眼科

〃五二

3

30.2

小川孝他

後水晶体繊維増殖症とその成因に対する考察

臨床眼科

〃五四

4

32.9

三島済一他

後水晶体繊維増殖症の一例について

眼科臨床医報

〃五九

5

35.2

中島章他

未熟児の眼症状について

臨床眼科

甲一一

6

36.8

工藤高道他

水晶体後部線維増殖症に就いて

臨床眼科

〃三五

7

39.2

松本和夫他

水晶体後方線維増殖症の治療について

臨床眼科

〃一二

8

39.4

保坂明郎他

未熟児の眼所見

臨床眼科

〃六七

9

39.1

植村恭夫

小児にみられる眼異常とその意義

眼科

〃三六

10

40.3

松田一夫他

後水晶体線維増殖症の2例

眼科臨床医報

〃六八

11

41.1

植村恭夫

湖崎克

未熟児の眼科的管理

小児眼科

トピツクス

〃九

12

41.3

植村恭夫

小児眼科

眼科臨床医報

〃六九

13

41.5

未熟児の眼科的管理の必要性について

臨床眼科

〃一四

14

41.7

水晶体後部線維増殖症または未熟児網膜症

小児の眼科

〃一〇

15

41.1

〃 他

小児眼科について

眼科

〃七一

16

42.2

〃 他

未熟児網膜症の臨床的研究

臨床眼科

〃一五

17

42.8

〃 他

未熟児網膜症に関する研究

医療

〃一六

18

43.4

永田誠

未熟児網膜症の光凝固による治療

臨床眼科

〃一七

19

43.9

馬嶋昭生

未熟児の眼科的追跡調査

眼科

〃一八

20

43.9

奥山和男他

未熟児管理の現況

〃二八

21

43.1

永田誠

未熟児網膜症の光凝固による治療の可能性について

〃一九

22

43.6

(大阪眼科集談会報告)

眼科臨床医報

〃七七

23

43.1

植村恭夫他

小児眼科

臨床眼科

〃七八

24

44.1

塚原勇他

未熟児の眼の管理

〃二〇

25

29.2

馬場一雄他

早産児眼底検査

小児科診療

〃五三

26

30.11

弘好文他

乳幼児視力障害と酸素吸入

〃五七

27

32

藤井とし

後水晶体線維症について

臨床小児医学

〃五八

28

33.2

馬場一雄他

未熟児の疾病予防に関する研究

小児科診療

甲三四

29

36.1

小児における眼疾患

小児科

〃六四

30

38.6

MARYOROSSE

大坪佑二訳

後水晶体線維増殖症

未熟児

〃七

31

40.6

植村恭夫

小児疾患と眼底所見

小児科

〃一三

32

41.1

早期発見に小児科医の協力を必要とする眼疾患

〃七〇

33

42

福田雅俊

後水晶体線維殖症

現在小児科学大系

〃五

34

43.1

高鳩幸男他

退院時における未熟児眼底検査とその意義について

小児科診療

〃三七

35

45.2

岩瀬師子他

未熟児網膜症の発生要因と眼の管理について

小児外科内科

乙四七

36

45

植村恭夫

未熟児網膜症の診断と治療

小児科

〃四八

37

45.12

未熟児網膜症

日本新生児学会雑誌

甲二三

38

38.6

樋口一成他

新生児の生理と病理

日本産婦人科全書

〃六五

39

36.12

中島章

失明と産婦人科

臨床産婦人科

〃六六

40

日本産婦人科

学会・新生児

委員会

新生児学

〃七二

41

42.12

木村好秀他

後水晶体線維増殖症について

産科と婦人科

〃七四

42

43.4

三谷茂他

未熟児

〃七六

43

43.11

植村恭夫

新生児眼疾患

産婦人科の実際

〃四五

別表(二) (光凝固法の実施ないし発表例・昭和四六年二月以前)

番号

実施者

実施例

発表(昭和・年・月)

甲号証

1

永田誠

昭和四二年三月と五月に各一症例

42.秋の臨床眼科学会で報告

臨床眼科(43.4)

眼科(43.10)

一七

一九

2

昭和四四年六月と七月に四症例

44.秋の臨床眼科学会で報告

臨床眼科(45.5)

二一

3

田辺吉彦

昭和四四年四月から同四六年七月までに二三症例

日本眼科学会雑誌(47.5)

四三

4

九大附属病院

国立福岡中央病院

昭和四五年の一年間に二三症例

日本眼科紀要(46.9)

四一

5

関西医大

昭和四五年六~一一月に五症例

45.秋の臨床眼科研究会で報告臨床眼科(46.4)

三九

6

永田誠

臨床眼科(45.11)

二二

7

県立広島病院

昭和四五年一月から同四六年八月まで一二症例

眼科臨床医報(47.11)

四七

8

野呂幸枝

斉藤紀美子

第一五回未熟児新生児研究会(45.10)で四七例の報告

八七

9

植村恭夫

産婦人科の実際(43.11)で光凝固法を紹介

四五

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